Quantcast
Channel: 読むクスリ、ときどきトマソン
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1020

雀聖に学ぶ、筆が悪滑りしないコツ

$
0
0


トマソン。








先日・・もうせんの先日だけれど、師匠・N先生の指導で色川武大の『百』を読みました。

麻雀放浪記の「阿佐田哲也」と言ったほうが、知る方が多いかもしれない。持病のナルコレプシーのため、勝ち麻雀の途中で寝オチ⇒ボコボコ・・などの武勇伝とか。
「いねむり先生」っていうと、ちょっと微笑んだり、うるっとする方も。

百 (新潮文庫)/新潮社



百歳を前にして老耄はじまった元軍人の父親と、無頼の日々を過してきた私との異様な親子関係を描いて、人生の凄味を感じさせる遺作集。

・・おさない兄弟が共有する独特のひみつの儀式、自分の異形や思考癖、その日々のなかにフラットに描写される妄想(ナルコレプシーの前兆?)・・・主人公が撲殺する小さな猫たちや、彼の首をしめつける猿は、何の象徴なのか象徴でないのかよくわかりませんでしたが、すべての描写に気負いもてらいも優劣もないようで、言ってみたらウォーリーを探せみたいな文体でした。斬新だ。

そして、

あらゆる関係性に「特権意識がない」とご自分で書かれているとおり、世の中の「レイヤー」から自由なスタンスだなあと感じました。

だから、こんな過剰な父(中年になってできた息子を溺愛し英才教育し登下校に付き添い図画工作宿題を自分が手がけ・・・)をシートン動物記みたいに描くことができたのかな。


「母と娘」で描かれる文学やドラマは多いけれど、「父と息子」も、このような文学になるのだね。とN先生は言う。

父との葛藤がある人に読んでみてほしいと思います。私も、息子のように父を疎みまくった時代に読んだら、違うレイヤーからの視点が持てたかなあ。



新人・色川が父を描いた『黒い布』が、中央公論新人賞を受賞したとき、選評会で三島由紀夫が「この作品は、それまでの文学や小説に書かれていなかったようなことを書いている・・。
どこかで読んだような小説でないもの・・・そういう意味で新人賞にふさわしい・・・」。ということをおっしゃったそうです。(うろ覚えですがそういう感じ)

なるほどって思った。


純文学の「ジュン」というのは、シニフィエ&シニフィアン的なことをどれだけ自分なりに関数ボックスにできてるか、っていうこともあると思うけど、
「誰かがすでに構築したホニャララに影響されていない」。そういう意味での「ピュア」とか「真摯」とか「マジ」のことである。
とも、よく言われていて、そりゃあもう、私だって誰かの書いたような表現はしたくないんだようーーと心からと思います。でもこうやってブログなんか書くと、書いたそばからツルツルと文章が滑っていって、もうイヤッ。って泣きたくなるのね。



と思っていたら、N先生が面白いことを教えてくださいました。

奥様が夫の背中を見るとき、

「阿佐田哲也」として雑誌などに麻雀コラムを書きとばすときは、リラックスし、緩み、楽しんで書いているようであった。雑記帳のようなものを使い、草書ですらすらと書いていた。

しかし、純文学作家「色川武大」として書くときは、背中がピンと張りつめ、緊張し、その背を一目見ただけで「今は色川になっている」とわかったという。

そういうとき色川さんが使うのは、大きめなマス目の原稿用紙で、きっちりきっちり、楷書で、一マス一マスを、埋めるように書いていたそうです。


「そうやって、“色川”になるときは“書き飛ばさない”ようにしていたのかもしれないね。筆が滑りそうだと感じたときは、文字を大きくして、きっちり書いてみるのもいいかもしれないね。PC文字の級数を上げてみるとかね」と、半分冗談のようにN先生はおっしゃったけれど、

それ、使えるんじゃないかしら。

PCでもこのように表示し見比べることはできる。そういえば私も時々やってみます。文字・文章のサイズそのもの(できれば書体も)変換することで、「間」が与えられ、一呼吸置かれて、筆が悪滑りするということが、すこし減るような気もしないではないです。

色川先生ありがとうございます。
N本先生ありがとうございます。


↑適切かは別として、ニュアンスは変わりますよね。


* * * * * *

ちなみにトップの写真は 故・赤瀬川源平展でひさしぶりに見た、ただ昇って降りるだけの意味不明な階段こと「四ツ谷の 純粋階段」。
すてきですよね。2015年の目標としては、もっとこうしたトマソンを思い出し、接近しようと思います^^


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1020

Trending Articles